「ふぁ~あ」
おチヨは伸びともあくびともつかない中途半端な声をだして背中をひっぱりあげた。むこうでは上司がイヤホンでZoom会議、しずかに集中している。
「ちょっと休憩すっべ」
書きあぐねているメールを一旦置いて、1階上の友達のタツ子のとこにゆくことにした。
居室を出て大きなガラス窓の外をみやると、10数年来とかいうここ数日の大雪で、むかいの建物の屋根から雪のかたまりが落ちようとしている。道路は踏み固められた雪でツルツルのよう、行人は用心しいしい歩いている。
「はれ、一番温度さがるいわれていた昨日よりなにやら廊下はきょうのほうが寒い気がするゾ」一日かけて建物全体が冷えたのかな、ひとりごとをつぶやきながら階段をみしみしのぼり、いつものごとくドアを開いたままにしてあるタツ子の居室に「こんちわー」とはいってゆく。
「ねえねえ、愚痴きいてよ」
とおチヨが言うにも構わず相変わらずマイペースのタツ子はPCのモニターを眺めながら、こないだおチヨが貸したマンガを片手に
「まあまあ、この作者、アタシよりすこしだけ年上と思ってたら、もっと上だったのね。この漫画の時代を実際に経験しているのねぇ」
と作者の情報をググって読み漁っていた様子。
「そうねえ、けっこうなお年のはず。70歳すぎていたのでは…?」
「はい、75歳とあるわ」
とひとしきりその作者や周辺の話をしてから
「チョット待ってヨ!ワタシの愚痴もきいてよ~」
「なに、どしたん」
「こないだの申請の件でさ~」
「なに、まだあれやってんの」
「Kさんがワタシ個人にめんどくさいメール送ってきてさ。スルーしたいけど返信しないと気ぃ悪いから、どうしようか悩んでるわけ」
庶務部のKさんは彼女の上長であるおシゲさんをえらく嫌っていて、周囲に悪口を熱心に言ってまわるのはもちろんのこと、本人に対しても信じられん失礼な態度をとっているらしい。関わりたくないので普段、できるだけおチヨはかかわらないようにしているのだが、今回おチヨ担当の部署からの申請について彼女がしゃしゃり出てきたのだ。
電話をかけてきた彼女の説明から、彼女がとりまとめをしている件なのだと思い込んでいたら(それにたしか「あなたがとりまとめているのですか」と訊いたら「はい」とこたえたゾ)今回長々と書いてきたメールを読むと、実際はおシゲさんが担当で、おシゲさんの仕事ぶりが気に食わないからKさんが「気をまわして」「助けてあげようと」おチヨに電話してきたらしい。メールにはいかにおシゲの対応がおかしいか、が書き連ねてあるのだがおチヨからしたら「どーでもええ」。むしろ対応について見当違いのことを言ってきたり、Kさんにかき回された思いだ。それなのにメールは「手伝えることがあったら何でも言ってください」と締められているので片腹痛し。
しかし着任前に現在のおチヨの上司の補助をKさんがやっており、その上司には気に入られて覚えがめでたいので上司の手前、無下にもできぬ。
「おチヨちゃんのこと、優しいと思ってるのよ」
とタツ子。
「アタシみたいにさ、ビシっと言えばいいのよ」
以前、助けにならないくせにごちゃごちゃとKさんが口を出してきたとき
「それではあなたがやってくれるわけ?」
と言うと、それ以来タツ子の仕事には口をはさまなくなったという。
「会うと、あらいい車ねえとか、当たり障りのない話はするけれども仕事の話は一切しないようになったわよ。おチヨちゃんも『年度末で忙しいんで、その話はもう終わりにしましょう』とでも言えばいいのよ」
ふむ、なるほど。
得心がいってまた雪が降り始めた外を眺めながら階段を下りて居室に戻ったおチヨは時間ぎりぎりまで返信せず、終業時間が過ぎてから
「年度末のバタバタで返信遅れてすみません!
心配してくださってありがとうございます。
あの件はもともと準備できていたので問題ありませんでした。
よい週末を!」
とあたためておいたメールを出してとっとと職場を後にした。
Kさんが深読みしてキーとなってたって、もう知るもんか!
おチヨの今年の目標は「人間関係の摩擦を最小限に」なのだ。