焚書の時代

そういうわけで、自分の本棚をあらためてみたら
持ってることを忘れていた本たちとともに、そろそろまた読みたいなと思っていた丸谷才一の「思考のレッスン」がでてきたので、阿部公房の「カンガルー・ノート」と並行して読み直しております。

それにしても、ボルダリングはいいね。
これまで注力していた一件が先週末片付いて力が抜けたのと、急にヒマになったのでここ数日家にこもりがちになってこれまで以上にひとと接する機会が減り落ち込み気味だった気分が、ジムのお兄さんとしゃべり、身体使い、漫画読んで向上した。自分好みの洞窟っぽい場での課題をひとつ達成し、気持ちよく大満足。そして「うだうだしつつも、ボルダリング行ったぞ!」という、ナマケモノの自分が自分の意思により行ったことによる自尊心の満足も大きいだろうなあ。いまだ初心者課題をウロウロしている自分でも、右手の中指第一関節がすこうし太くなって、以前はいっていた指輪がはいらなくなってるんです(デブったのではありません)。

「思考のレッスン」は20年ほど前の本ですが、学ぶこと多し。
いまではWeb版になり読む気の起こらない文藝春秋の「本の話」という広告本、毎月一回一冊100円で一年購読1000円をしばらく買っていて、これをかなり頼りにしていた。下手な文芸誌よりよほど面白いし、本を買う指針になったのです。銅版画家、山本容子の表紙も好きだった。

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本の話 平成12年2月号

丸谷才一、そして「思考のレッスン」をこれで知って買ったのだと思う。

あらためて読んでみると、「いまだからわかるかも」ということも多し。

「へっへえ」と思ったのが、戦前から戦後まで、「本を読むな」という時代だったということです。
「本を読むとよけいなことを考える」「アカに染まる」とか言われてたとか。
だから、終戦直前に生まれた母親なんかは、あまり本を読まないのかなあ。母から本を読むことをほめられた覚えがない、そういえば。父はかなりの読書家で、四方を本で埋め尽くされた書斎をもっていたけれど。
親の世代でそういう時代があったとは、やはり、時代を知る先達の話をきくことは大事ですな。

それにしても、ほんま「華氏451度」の世界ですな。

それは、読書は思考を深める手段であるということを反証するものでもある。

若者の活字離れが叫ばれたりしてるけど、なんだかんだ、ウェブでも読んでるからいいんじゃないでしょうかね。たしかに、簡単に読めて深く考えずに答えを得るということを加速させてるかもしれませんが、時代に抗うことはできぬし、まあなんとかなるだろ。

しかし、何度じぶんに教え込もうとしても、「焚書」を「たくしょ」と覚えてしまっているのです。